我が家の音風景について考えた

となりの家では、庭を大修繕しているのか、とんかちで壁を殴る音がカンカンと鳴り響いている。鉄のぶつかる音は耳に痛い。都市は至ってそうだと思うけど、ロンドンは本当にやかましい街だ。向かいの道路には車の往来が絶えず、空でさえヒースロー空港を離着する飛行機で大混雑している。住宅街は年中どこかしらの家が改装リフォームをしているし、週末の夜は上の階の住人がホームパーティーでどんちゃん。夜中になっても、犯罪を追うパトカーや救急車の音を毎晩かならず耳にする。私にはこのノイズのオーケストラを楽しめるほど、残念なことに音感も、音に対する想像力の豊かさも持ち合わせていない。ふと、いつの日だか耳にした「都市と音風景」という言葉のフレーズを思い出した。そういえば、音にも美しさや醜さがあるんだ。やっぱり音が汚いと、心も平穏には保てないし、頭にノイズがかかれば普段考えられることすら考えることが出来なくなる。逆に音が良いと心もオープンになって、考えも弾めば思想も豊かになるんだろう。

生活の中にある音に恵まれてきた人は、音の感性も豊かになる。と、あるエッセイでは、京都のサウンド・スケープについて話していた。

京都にはさまざまな音が息づいている。祇園祭宵山、宵々山の夜には、コンチキチンという祇園囃子の音が響きわたる。先斗町や祇園の石畳には舞妓さんのコッポリの音が響き、数々の寺からはそれぞれ異なる音色の梵鐘が打ち鳴らされる。鴨川のせせらぎは悠久の時を刻み、下鴨神社のほぼ全域を覆う糺の森の植生は遥か古えに遡る。そしてそこには驚くほどさまざまな鳥たちの声が聞かれる。 〜途中省略〜
 身の回りの生活空間が意味を持たず、そこから満足が得られる可能性が少なければ、人は、日常的に、非日常の世界を追い求めるようになる。こうして、人はマスメディアからもたらされる情報を頼りに、グルメやファッション、そして音楽をはじめとしたエンタテインメントを求めて大都会の中を漂流する。本当は自分の生活空間の回りにとても素敵なものがあるかも知れないし、それが今はささやかなものであっても時間をかけて育てればとても素晴らしいものになるかも知れないのに、そこに眼を向けることをしないのだ。
 いわば現代の都市生活者の生活空間は、職場と家とに分断され、また、職場と家のそれぞれの場においても外の空間や人間から分断されるという、2重の意味での分断と疎外の中に置かれているのではないか。このような現象は、職住分離が人の意識にもたらした必然的な結果なのかどうかは分からないが、少なくとも都市の中で日常的な生活空間が後退してきた結果であることだけは間違いないだろう。
http://www.asahi-net.or.jp/~CH5Y-HSMT/awd/city.htm


私の記憶の中に残っている音ってなんだろう。お風呂場で聞いた雨の音、夏のお囃子、遠くにこだます盆踊りのざわめき、2階を家族があるくたびにミシミシ言う床の音。夜、窓を開けて寝ると、ラジオを流しながら自転車をこぐおじさんの車輪の音。聞こえなくなった音も沢山ある。自転車でくる新聞配達や、新聞交換、お豆腐やさんの音。鳥や風、川のせせらぎ、とは言わなくても、こんな人間が作り出す生活のなかの音も『自然』なんだって。こんな貴重な音を、日本で多少なりとも育めたことを感謝しつつ、一体これから、どんな音をわたしは蓄えていけるのか、まわりを気にしてみようかな、と、これは今日思ったこと。