ryumi2006-05-08

今日は何だかぼたぼたと涙がでた。水分を補給するために沢山コーヒーをつくった。涙のシミは作業していた机の上に絵を描いた。

朝からぽつぽつと音をたてて落ちる雨の軌跡をききながら、庭にむかって並べた机の上で、ある人へ手紙を書いていた。昔から泣き虫なのは相変わらずで、でも今は泣くからといって自分を責めるのは止めている。

たぶん雨をすきな感覚と同じような理由で、わたしは昔から『人が泣く瞬間』を美しいもののように感じている。

それはたぶん、涙と雨が、とても似ているからだと思う。泣くという行為は、感情が高ぶったとき、自分の心の器では受け止めきれないほど気持ちが溢れかえったとき、ひとはその感情を涙に変えて心のバランスをとるのだ、と聞いたことがある。そして雨もまた同じように、そのメカニズムは、空中の水分が飽和状態に達すると受け止めきれない分が雨となって地上に落ちるのだ。

「子供の日」と題した父のメールには、とても短い文章と、今は三人だけの家族で撮った集合写真が載っていた。心のアルバムを振り返れば、いつも家族の行事には五人全員がいたのに、『気がつけば3人だけに』という父の一言があまりにも的を得ているから、たぶん涙がでたんだろう。今だって、顔をあわせれば苛々することばかりだろうけど、また日本に戻れば家族5人が集まって、銭湯に行ったり、焼肉を食べに行く日が当たり前のように待っている気がしていた。高校の時に寮生活をしていたときと同じで、今はちょっと長めに外に出ているだけのような感覚・・・。それが偶像にすぎないことを、今更になって気がついた。それに驚いて涙が出たのかな。

何かと言い訳に聞こえるかもしれないけど、こんな日は誰に会うでもなく、自分の気持ちと向き合うべきな気がする。それが私にとって『ものを造る』立場の上では、とても大切なことのような気がする。アーティストは、こうやって「涙が出た」という言葉を口には出さないのだろうな。アーティストは、こうやって言葉で表す代わりに別の、彼にとってもっと効果的な Language でみせるんだろう。その Language に変わったときに、この『一瞬』はアートに生まれ変わるんだろう。

こうやって、少しセンチな父のメールと、良く昔から「もう皆でゲームしたりカードで遊んだりすることは無いのかな、それが悲しいな」と言っていたフクチャンの言葉を思い出した。彼女はもう、ずっと先にそれが見えていたんだろう。特に家族の大切さを感じ取ることの出来る人だったんだろう。そんな彼女が織り成す『家族』はとても素敵な家族になるに違いない。私にはとてもくみとりえない日々の、繊細な出来事をくみとってる。みんな くみとってる。家族や友人、リッチへの想いが交差する。突然だがやっと、皆がかけがえのない大切なものだって実感する。でもこの感覚は、5分後には忘れてしまう危険があるから、今の日記に残しておこう。しばらくすると、読み返してもこの感覚は帰らないかもしれない。だけれど、ともかくは今日の日記に残しておこう。