スチュアート:演技と芸術

今朝方、空からつよい雨がふってきた。庭の椅子にかけてあったリッチのズボン、カーテンを開けなくてもずぶ濡れになっているのが目に見えるよう。いつもこんな雨がふると、そのうち水があふれて、この家は沈んでしまうかも・・・と。一瞬、小さな恐怖がよぎる。が、雨が力強く床をうつ音に耳を傾けているうち、まるで大波に揺られる船のゆりかごにでも乗ったような気分で、しあわせな気分に。心地よくなり改めて二度寝。

起きてから、カーテンを開けて晴天をカクニン。ただ、昨晩見たドラマのことがどうしても頭から離れず、朝方から考え過ぎて頭がいたくなってしまった。有り難いことにじかんもあることだし、今朝はまず、それをここに書き出してしまおうと決めた。



『Stuart: A life Backwards』という本の、タイトルをそのまま使った実写版ドラマを、きのう寝る前に何気なく途中から見始めた(日本ではまだ訳されていないようだから、私が勝手にタイトルを訳してみると「スチュアート:うしろからの人生」かな?アレキサンダー・マスターズ著)。BBCでやってた、どうも特別企画のドラマらしかった。

お話の内容は、新米物書きのアレキサンダーが、「ドラック漬けでアルコール中毒、自分を傷つけるのが好きで、他害行為もたまにするサイコパス、自殺願望がありしかも家なし」という、すったもんだのホームレス・スチュアートと出会い、彼についての本を書くためスチュアートにインタビューをする、その様子を記録したお話。イギリスのホームレス事情についての社会派的なテーマに違いはないだろうが、それよりも、複雑な問題を抱えているにも関わらず人間的な魅力を失わないスチュアートと、ふたりの間に育まれる友情関係がとてもユーモラスに描かれていて、重い内容を扱っているにも関わらず堅苦しさが一切なく、一つの人間ドラマとして体験できる。見終わった後、さわやかな感動につつまれつつも、ともに考えさせられるという、かなり秀逸な作品だったと思う。途中からだったにも関わらず、あれはほんとうに映画を見た後のような見応えだった。

ハナシはずれるけれども、BBCはこういうクオリティーの高いものを、特別大掛かりな宣伝もなく、ある日の夜に、何となくやってしまう節がある。国営ということもあるだろうし、もともと作品の平均レベルが高いというのもあるだろうけど。こんな大きな団体に対して受ける印象としては、不思議な言い草かもしれけれども、私にはなんだかこういうところにも、イギリス人のお国柄というか、金銭に対する大らかさ、みたいなものが垣間見えるように思えるのだが。

私があの時、たまたま起きていて、リッチがあの時、たまたまテレビのチャンネルを回していなかったら出会えなかった作品だ。だからどうしても、ちょっとした運命のように感じてしまう節があって、頭のなかで気になってそわそわするのかも。




時たま流れるイラストレーションの存在感もすごい。ほとんど線で描かれただけの、白黒イラストであるにもかかわらず。それが合間あいまに流れて、とても効果的に、この映画、いやドラマの味を引き出していた。だから最初私はてっきり、これはコメディードラマなのか、それともアート・ビデオなのか、と判断しかねたくらいだった(結局はどちらも間違いだったけど)。調べて後から分かったことだったが、これは実在の著者、アレキサンダーさんのイラストだったらしい。このドラマのために、アニメーションも書いたんだろうか。こういうマルチな才能を持てるって素敵だな、と。また絵心というものは、こういう風にも生かすのことが出来るのか、と学んだ気がした。



(さて、ここからは更にまとまりのないハナシなので、予めご了承ください。ここまで読んでいただいたうえ、更なる長文乱文すみません。)



とにかく何より心に残っていたのは、スチュアート役をしていた役者さんの圧巻の演技。こちらの国に来てから、こういうすごい演技をする役者さんに、どういうわけかブラウン管の上でよく出会うなぁ、と。じつはそのことを考えていて、それが頭から離れなかった。


まとまっていないが考えていたことがふたつ。


ひとつは何故映画ではなくてドラマで、このような見事な演技ができるのか。どうも芸術として認められている演技の場、としては劇場や映画で、とどこか相場が決まっているような節がある。こういう演者さんは、テレビだけではなく数々の映画にも出演している。それを思うと、このような演技を見せる場は他にもたくさん恵まれているのだから、当然そちらで見せることが期待されるものではないだろうか、と。だけど、鳥肌のたつようなここまでの演技に、さきほども触れたように、イギリスではなぜかテレビの上で触れる機会に、日本より多く恵まれているような気がする。たとえば去年、くせのある Kenneth Williams というコメディアンのキャラクターを見事に体現していた Michael Sheen さんを見たのも、同じような状況でのことだった。これはいったい、日本とイギリスの役者さんがそれぞれ、異なった哲学を持っているのか、それとも業界のシステムの違いが影響しているのだろうか。


それに続き、ふたつめに引っかかっていたのは、演技の芸術性に関することだった。これほどの演技は、演者さんが相当精神と誠意を費やして作り上げたものに違いない。その努力や集中力の発端を、わたしはアートだと受け取ったのかもしれないし、それとも他になにか理由があるのだろうか、と。とにかく演技やパフォーマンスの方面はからきし無知のわたしが、こんな個人的な感想を申し上げるのは恐縮だけれども、端から見てきのうは(芸術の域に達した演技ってこういうことじゃないかなぁ)と思った。

その演技の芸術性って、いったいどこから違いが生まれ、こころのどこの部分で感じるんだろう、と考えていたら、一方で持ち上がって来たのは演技のシャーマニズム性だ。

それは特に亡くなっている人をもう一度 re-create する、biographic な作品だった、今回のような場合だったからこそ、私にはさらに分かりやすく感じたのかもしれない。演じる、ということは、ある人の人格を、演技する人のからだをつかってもう一度そこに発生させる、という行為だ。それはまるで校庭という、ひとつの世界に起こった小さな竜巻のように見える(わたしはなぜか、竜巻を想像するときに、アメリカで起こる巨大な竜巻よりも、都会の路地裏で起こるビル風の竜巻よりも、こどものとき日本の校庭で見たあの小さな竜巻を思いおこしてしまう)。いっとき、人の目にふれたあとに、それはまた消えてゆくのが正しい。

それは最初、誰かのまねをする、一連の動きをもった物まねのようなものなのかもしれないし、それは、いかに精巧におりなされたかがモノを言う技術なのかもしれない。だけどその技術のなかに(ほとんど物まね以上のイタコとでも言うべき)人格が降り立った時、それが神秘の域にたち入った時に、多分そこに何かと何かがぎりぎりの値で振動しているんだと思う。演技のなかに発生した、その一瞬の奇跡の集合体から、芸術が生まれ感じられるのかもしれない。それに芸術とはもともと、神性、神秘なものを扱うということだから、まさにこれはそういうことで、そのままつながっているのだから・・・う〜ん、やっぱりまだまだ考えがまとまらないや。これは保留!

とても長くなったが、とにかく今回の経験で今言えること。それは、演技によって生み出されるアートは、劇場のパフォーマンスや映画だけで拝むものじゃない。運が良ければそれは何気ない一日の、何気ない夜に起きるんだ、ということ。それを何気ない居間の一間で、何気なく一緒にいた人と、わたしは体験した、というだけの、なが〜い記録。



Stuart: A Life Backwards (2007) (TV) http://www.imdb.com/title/tt0853153/
Kenneth Williams: Fantabulosa! (2006) (TV) http://www.imdb.com/title/tt0490126/